慶應義塾大学ロゴ
西東京三田会
会員ログイン

MENU

サークルメインビジュアル

サークル情報

グルメ会
2025年7月18日

新田義貞像、分倍河原駅ロータリー

歴史好きで城郭検定1級の西東京三田会会員の

Mがわさん、分倍河原駅のロータリーにある新田

義貞像を見てサントリー武蔵野工場行きのバスを

待っているとわかりやすい日本史の話しが始まり

ました。

新田氏の根拠地は 上野国新田庄(今の群馬県の

太田市や桐生市一帯)です。

新田氏は源義家(頼朝の4代前)の孫(義国)が初代

です。(足利氏も義国から)

新田義貞は後醍醐天皇からの呼びかけに応じて旗

揚げし、初めは小手指の合戦、次に久米川の合戦で

、鎌倉幕府北条方を破り、更に今いる分倍河原で鎌

倉北条方に壊滅的な打撃を与えました。

このため北条方は鎌倉に退却。分倍河原の戦い後、

新田軍は鎌倉を3方向から攻め込み、その結果鎌

倉幕府(北条政権)は壊滅しました。

北条氏は当主北条高時(14代執権)初め800人余

が鎌倉東勝寺で切腹したと伝えられてます。

高時腹切りやぐら (やぐらは鎌倉地方の言葉で

洞穴状の墓)と言って、東勝寺の跡地に洞穴があり

ます。

分倍河原の北条方大将は北条泰家で最後の執権北条

高時の弟です。北条軍の方が多勢で、分倍河原でも

初めの衝突では、北条軍優勢でしたが、新田軍は

次第に態勢を立て直し、北条の油断したすきを見

計らって攻撃することで、新田軍の勝利になった

と伝わっています。

新田軍は鎌倉へ進みますが、鎌倉は、周りを山に囲

まれて、進入路確保は難航しました。海沿いの稲村

ヶ崎から攻めたときに、義貞が剣を投じて祈ったと

ころ、潮が引いて海から攻めることができたとの

伝説があります。